プロジェクトの始まりは2010年。
当時、会社の事務長を務めていた山本浩己は、南貴晴社長からある打診を受けました。「山本。韓国に行って、まっこりの作り方を覚えてこい。」考えに考えましたが、一度だけの人生。そんな貴重な経験はなかなかできるものではないと思い、山本は意を決して韓国に渡ることにしました。しかし、まっこり作りの技術を学ぶにしても、言葉が話せなければどうにもなりません。山本はまずソウル市内にワンルームを借り、語学科のある大学へと入学するのでした。
韓国での生活を始めた山本ですが、字が読めなければ、言葉を話すこともできません。家の近所で迷子になったり、買い物をするのも一苦労。そのため、いつしかホームシックに陥ってしまいます。しかしここで、山本の負けず嫌いな性格が現れました。「何が何でも韓国語を話せるようになってやる!」山本は1年半、語学習得に全身全霊を傾けました。その結果、専門知識を取得できるまでの語学力を身につけるに至ったのです。
山本は語学を習得すると同時に、まっこりの技術を取得できる場所を探していました。酒造所をいくつも回っては、限られた語学力で精いっぱいの思いを伝え、頭を下げました。しかし、ことごとく門前払いを食らってしまいます。「やっと言葉が話せるようになったのに…」失意のどん底にあった山本でしたが、ある日、韓国伝統酒を題材にしたフェスティバルをぶらぶらしていると、偶然にもまっこり作りを教えてくれる学校の案内を見つけました。
外国人生徒は、山本が初めてでした。麹(こうじ)に関する知識からはじめて、まっこりの製造方法を脇目も振らずに学びました。日本だと密造になってしまう酒の自作も韓国では法規制が無いため、「自分なりのまっこりを作れ」という宿題が出されることもありました。また、その学校は料理学校を兼ねていたため、韓国の伝統料理の作り方も学ぶことができました。
このときの経験は、どんな料理にまっこりが合うのか、という研究の際にも大いに参考になりました。
山本がまっこりの技術取得に苦闘していたその頃、地元掛川市に、韓国のフェンソン郡から「生涯学習都市」として姉妹都市提携を結びたいというオファーがありました。掛川市長と、当時青年会議所理事長を務めていた南社長が視察に行ったところ、そこがなんと伝統酒の製造の街であることがわかりました。そこで群主に対し、協力を要請することになりました。
交渉の結果、姉妹都市としての架け橋の第一歩として、まっこり伝統製法の伝授という話がまとまるのでした。
株式会社オファードと韓国農村振興庁国立農業科学院が「共同研究」の分野で契約を結び、いよいよ国内での製造販売の準備ができるようになりました。多くの失敗を重ねながら山本も成長し、その技術力は卒業試験で作ったまっこりが最優秀賞を取るほどでした。2013年、一人前のまっこり杜氏となった山本は、強い決意と共に、ついに帰国の途に就きます。「日本で皆さんが喜ぶ、美味しいまっこりを作ろう」単身韓国に渡ってから、実に3年が経過していました。
山本が日本に戻ると、酒造許可の取得や製造工場の設計といった準備が次から次へと押し寄せました。すべてが日本初なので、製造工場機械も日本酒用の機械を作っている会社に依頼してアレンジし、どうしても無い場合は韓国から部品を取り寄せました。
途中、環境や製造量の違いからくる“味のぶれ”という課題に直面することもありました。しかし山本たちには、それまで支えてくれた国内外の大勢の方たちに恩返しがしたい、という思いがあります。諦めず膨大な試作を重ねた結果、ついに自社工場にて納得のいく美味しいまっこりをつくるレシピが完成しました。
正統製法による、日本初・国産まっこりの誕生です。
引用「きぬさらオフィシャルサイト」:https://www.kinusara.jp/skill/index.html